2024-08-28 呪術廻戦がフジファブリック『CHRONICLE』をオマージュしたことについて想ったこと フジファブリック コラム・エッセイ ※『呪術廻戦』のネタバレがあります。『呪術廻戦』がフジファブリックのオマージュしたことを好意的に受け取っている人を、不快にさせる可能性がある文章です。お気をつけください。 『ぼっち・ざ・ろっく!』の扉絵で『若者のすべて』のMVのワンシーンがオマージュされたことは、純粋にフジファブリックのファンとして嬉しかった。 元々バンドが題材となっている作品で、特に日本のロックバンドとは繋がりが深い作風である。そのためか扉絵では過去にも様々なバンドのCDジャケットやMVのシーンに、結束バンドが登場しているようなオマージュイラストが使われることが多く、それが定番になっている。それらのオマージュには、元ネタへの愛やバンドへのリスペクトを感じる。 それらのオマージュは『 ぼっち・ざ・ろっく!』が音楽やバンドとの親和性があり、それを扱う上での敬意を忘れていないからこそ成立している。元ネタへのリスペクトを第一にしてオマージュしているように感じるのだ。 音楽業界以外にもフジファブリックのファンはたくさんいる。だから異業界のクリエイターや作家がフジファブリックのオマージュをする例は何度か見たことがある。 『呪術廻戦』の作者である芥見下々も、きっとフジファブリックを好きなのだと思う。『呪術廻戦』の3巻では主要キャラクターのイメージソングを記載していたが、 七海健人のイメージソングがフジファブリック『サボテンレコード』とされていたからだ。 この楽曲はメジャー1stアルバム収録曲だが、知名度が高い訳では無い。おそらくファンでなければ知らないマニアックな楽曲だ。きっとフジファブリックのことをしっかり聴いている漫画家なのだと思う。「七海建人も橋本奈々未もフジファブリックのファンだし、そこまで知った上でのななみんはフジファブリックのファンという文脈かな?」と、勝手に妄想もした。 でも2024年の週刊少年ジャンプ第39号の『呪術廻戦』の扉絵でフジファブリックがオマージュされたことには、モヤモヤした。 オマージュされたのはメジャー4thアルバム『CHRONICLE』。2009年12月24日に29歳で亡くなったメンバーである志村正彦の生前最後に創られたアルバムだ。 そのジャケットと歌詞カードでは、フジファブリックのメンバーが小型犬を帽子のように頭に乗せた写真が使われている。今回のオマージュイラストではその写真と同じように、呪術廻戦の主要登場人物である五条悟、虎杖悠仁、伏黒恵、釘崎野薔薇が頭に小型犬を乗せている。 明らかにオマージュとわかるイラストだし、巻末のコメントで作者は『CHRONICLE』のオマージュについて言及している。おそらく作者としてもリスペクトの想いは込めたのだと思う。 でも、自分はこの扉絵を見た時、モヤモヤとした。言葉を選ばずに言うと、悲しい気持ちになったし、嫌悪感を覚えた。それは『ぼっち・ざ・ろっく!』のオマージュイラストを見た時とは真逆の感情だ。 左上に書かれた五条悟は作中で12月24日に死亡している。享年29歳だった。それはフジファブリックの志村正彦と、命日と享年が同じである。『CHRONICLE』の歌詞カードの順番を考えると、左上の五条悟は志村正彦の写真をオマージュしていると言える。そして扉絵に登場している残りの3人は作中での死亡は確定していない。 つまり実在した夭逝した人物と、フィクションの物語として死亡した人物を重ねていると解釈できるイラストになっているのだ。そして『呪術廻戦』はもうすぐ最終回迎えることが公表されている。つまりこのタイミングで、死亡が確定している1人と確定していない3人を扉絵に使うことは、今後の展開を示唆する意味合いが含まれてしまうし、それでいて実在の4人組バンドの1人が亡くなったバンドに共通点を見いだしオマージュすることは、必然的に読者に今後の展開につい考察や予想をさせる。 そういった意味で、このオマージュに自分はモヤモヤした。実在の人物の死をバンドとは関係の無いフィクションの物語に深みを与える舞台装置や手段として利用しているように感じたし、実在の人物の死をカジュアルにエンタメの材料として消費しているように感じた。それは自分の持っている倫理観とは離れたもので、自分の持つ価値観としては簡単には受け入れられない。そこに前向きな意味が込められていたとしても。 この扉絵はフジファブリックと呪術廻戦の両方を知っている人でなければ、扉絵の意図や意味を想像できないし考察もできない、残酷な一面がある。 呪術廻戦の物語を知らないフジファブリックのファンにとっては「超人気マンガがフジファブリックをオマージュしてくれた!」と純粋に嬉しい気持ちになるだろうし、フジファブリックを知らない呪術廻戦の読者ならば「オシャレでかわいい扉絵だ!」と思うだけなのだろう。オマージュの事実を知って「これを機にフジファブリックを聴いてみよう!」と思う呪術廻戦の読者がいるかもしれない。それはフジファブリックにとっては良いことだとは思う。 しかしフジファブリックと呪術廻戦の両方を知っている人にとっては、別の意味や意図を見た瞬間に感じとってしまう。両者のどちらもしっかり知っている人ほど、どちらも好きであるほど。 もちろんそのような人でも純粋に喜んでいる人はいるとは思う。でもそれと同じぐらいに傷ついた人はいるのではと思う。どちらも好きな人ほど、様々な感情が渦巻いてしまう表現ではと思う。自分だってフジファブリックのファンでありながらも、呪術廻戦のことも知っている者だから、オマージュを喜べなかったし悲しくなった。 やはり実在の死者とフィクションの死者を重ね合わせるように読み取れる表現は、人の死をカジュアルにエンタメに利用していると思ってしまう。それに自分は否定的なのだ。フジファブリックへのリスペクトが根底にあるとしても、自分が解釈しているリスペクトの形とは違う。 今回のリスペクトは「ただただフジファブリックか好き」という想いとは、違う意図や意味があるのではないだろうか。呪術廻戦の作品に深みを加える材料にしているようにも思ってしまう。文脈も脈略もなく、突然フジファブリックをオマージュしたのだから。 例えば『ぼっち・ざ・ろっく!』はバンドマンが主人公の、バンドの物語である。その上で邦楽ロックシーンにおいて重要なバンドであるフジファブリックをオマージュすることは、作品との繋がりや親和性を考えても理解できる。実在の人物の死をエモーショナルに利用もしていない。それにフジファブリックと結束バンドを重ね合わせるというのも、アマチュアバンドが好きなプロのバンドの曲をコピーすることと近い文脈であって、そこには純粋な愛とリスペクトを感じる。 それによって『ぼっち・ざ・ろっく!』の物語や設定やキャラクターなどに深みを加えるものになっているとしても、それはフジファブリックを利用したというよりも、音楽とマンガという異種類のエンタメが納得できる形で重なったコラボレーションに思う。オマージュには愛やリスペクトとともに、納得できる文脈が必要なはずだ。 対して『呪術廻戦』はどうだろう。マンガとの親和性があったわけではない。作者がファンであるとしても、フジファブリックと呪術廻戦の物語が繋がる文脈が、今まであったわけではない。突然オマージュされ「わかる人にはわかる」という表現方法で、読者に考察や予測をさせる舞台装置的な役割として、上手いこと実在の死者を利用したと思ってしまう。 映画ではあるものの『すずめの戸締り』を観た時にも、近い違和感や嫌悪感を覚えた。東日本大震災での悲劇がエンタメとしてカジュアルに利用され、物語をエモーショナルにするための材料として消費されていると思ってしまう物語展開や設定があったからだ。 個人的には嫌いな映画ではないし、良い部分もたくさんある作品だとは思う。それに新海誠が震災を面白おかしく利用しようとしたとは思えない。 おそらく震災で傷ついた主人公の傷か癒える物語を描きたかったのだろうし、それは伝わった。だが震災に対する表現方法があまりにもカジュアルで、簡素に扱われすぎではと思った。例えば岩井俊二監督も『キリエのうた』で震災を物語の重要な設定のひとつとしてフィクションの物語内で扱ってはいたが、この作品は真摯に丁寧に向き合い重く扱っていた。 実在の人物の死や実際に起こった悲劇を フィクションで扱う時は、かなり慎重にならなければならない。 志村正彦が亡くなってから、まだ約15年しか経っていない。東日本大震災か発生したのは、たった13年半前だ。歴史の教科書に載っているような昔の偉人の話でも、体験者が既に居ない遠い昔の悲劇でもない。まだ傷が癒えていない人は沢山いる。 おそらく芥見下々先生もフジファブリックへのリスペクトはあると思う。きっと自身が生み出したキャラクターと実在の人物を重ね合わせる場合は、本当に好きな人物でなければ重ね合わせないだろう。『ぼっち・ざ・ろっく!』の後藤ひとりも、名前からして後藤正文と重ねられている部分はある。それに近い感覚で重ねたのかもしれない。 だがあまりにも実在の人物の死をカジュアルに重ね合わせ、エンタメとして迂闊に利用してはいないだろうか。フジファブリックへのリスペクトはあるとは思うが、そのオマージュを目にしたフジファブリックや志村正彦のファンへの配慮はあったのだろうか。 今回の扉絵を純粋に楽しんでいる呪術廻戦の読者はたくさんいるだろうし、その気持ちは否定しない。フジファブリックのファンでも喜んでいる人はいるだろう。その感情も否定しない。人それぞれ感じ方は違うので、その気持ちは大切にしていいと思う。 それに自分はどのような感想だとしても、他者の感じ方を否定はしたくない。人それぞれ感じ方が違うものが、芸術やエンタメだと思う。だからこそ、自分の抱いたモヤモヤや違和感や嫌悪感も大切にしたい。 自分はフジファブリックの大ファンであるが、呪術廻戦も好きだ。だからこそ生まれたマイナスの感情を浄化させるために、この文書を書いた。浄化させなければもうすぐ最終回を迎える呪術廻戦を、今後楽しんで読むことはできなかったから。もちろん全てが偶然でこちらが読み取った意味や意図は勘違いの深読みかもしれない。その場合は勝手に深読みしたことを申し訳なく思う。 実際の悲しい出来事をフィクションで扱う時は、丁寧に真摯に扱って欲しい。カジュアルに利用しないで欲しい。エンタメや芸術も時としては人を傷つける表現や嫌悪感を与える表現はあるものだとは思うが、予想打にしない場所や想定外のタイミングで傷つく人が出るような表現をしない配慮は欲しい。 これは全てのエンタメや芸術について、自分が思うことだ。