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エビ中松野莉奈とフジファブリック志村正彦の誕生日に想ったこと

夭折した人の年齢を数えることについて

 

亡くなった人の年齢を数えてはいけないという話を聞いた。

 

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以前フジファブリックのボーカル志村正彦についての記事を書いた時の話だ。その記事には下記の文章を綴っていた。

 

自分が初めて観た12年前のライブで”変なお兄さん”だった志村が37歳になって”変なおじさん”になってライブをやっている姿を観たかった。

(フジファブリックの志村正彦を最後に観たライブについて -)

 

志村正彦は2009年に29歳で亡くなった。もしも生きていれば今年の7月10日で40歳になっていた。(上記文章は3年前に書いたので37歳と書いている)

 

この記事に反応をしてくださった人が「もし生きていたらと想像して亡くなった人の年齢を数えてはいけない。亡くなった人の誕生日を祝ってもならない」とメールでコメントをくださった。

 

このコメントをもらったのは3年前だが、今でも忘れられない。胸につっかえているものがある。

 

コメントをくださった人も悪意があったわけではない。フジファブリックのファンで、志村正彦の音楽を愛する人のようだった。たしかに自分も「故人の誕生日を祝ったり年を数えてはならない」という迷信は聞いたことがあった。

 

それでも夭折した故人の誕生日には思い出して「もしも生きていたら」と想像してしまう。

 

「30代ではどのような音楽を作っていたのだろうか」「見た目はどうなっていたのだろう」「似合わなそうなのに髭とか生やしちゃってそうだな」などなどを考えてしまう。

 

自分は彼の知人ではないし家族や親戚でもない。しかしフジファブリックの音楽に救われてきたし、とても大切な存在だ。

 

友人や親族でもないのに誕生日や命日に思い出してしまう。そんな若くして亡くなった著名人は自分にとっては少ない。あとは私立恵比寿中学の松野莉奈ぐらいだ。

 

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松野莉奈は致死性不整脈という病気で2017年に18歳で亡くなった。

 

彼女のことも誕生日や命日には思い出してしまう。エビ中で歌い踊る松野莉奈のパフォーマンスには何度も元気をもらったし、テレビやラジオで見せるキャラクターには何度も笑顔にしてもらった。

 

自分がアイドルを深く好きになるきっかけのグループの一つがエビ中であり、松野莉奈の存在だった。家族や友人ではないとしても、自分にとって大切な存在の一人だ。

 

彼女の年齢も誕生日になる都度に数えてしまう。

 

この文章を書いている7月16日は松野莉奈の誕生日だ。22歳になってるはずだった。

 

大人になってより一層綺麗になっていたんだろうなと思ったりする。歌やダンスも上達していただろう。でも性格は「見た目は大人。中身は子ども」で変わっていないと思う。そんなことを想像してしまう。

 

しかしそれはいけないことなのだろうか。

 

なぜ亡くなった人の誕生日を祝ってはならないのか?

 

「死んだ子の年を数える」ということわざがあるらしい。

 

【意味】死んだ子の年を数えるとは、今さら言ってもどうにもならないことを、くよくよと思い煩うことのたとえ。

(引用:死んだ子の年を数える - 故事ことわざ辞典)

 

どれだけ40歳のおじさんになった志村正彦を想像しても、記憶の中の志村は29歳のままだ。気づけば自分よりも年下になっていた。志村よりも長い年月を自分は生き続けている。

 

どれだけ22歳の大人になった松野莉奈を想像しても、彼女のどの写真を見ても少女のままだ。メンバーの中では大人っぽいルックスだったのに、残された写真を見ると他のメンバーの現在の姿よりも幼くみえてしまう。

 

ことわざの意味の通りで、どうにもならないことに思いを馳せて切なくなっている。勝手に胸を締め付けられて苦しくなっている。

 

もしかしたら虚しいことをしているのかもしれない。

 

誕生日は生まれてから今日を祝う日なので亡くなった人の誕生日は基本的に祝うことができません。日本の魂の考え方では向こうの世界に無事に安全に行ってもらうことが大事なんです。なのでこの世に想いが留まるようなことはしない方が良いという考えになります。

 

「死者の誕生日を祝うこと」について、有限会社佐藤葬祭が投稿したYouTube動画では上記のような説明がされていた。

 

宗派や国ごとの文化によっても違うようだが、日本では故人の誕生日は祝えないという考えが一般的なようだ。

 

しかし動画の後半では下記のように続けている。

 

現実には自分の亡くした子どもの誕生日や命日に好物を仏壇に供える親は結構いるんです。ただそれがお祝いなのかと言うと、どちらかというと弔いなのだと思います。

 

あるおじいちゃんが命日と誕生日が同じだった時、誕生日ケーキを祭壇に脇に「おじいちゃん、おめでとう」と言って置いたことがあります。現実では多少はそういう自由さが残っています。

 

たしかに弔いの意味が強いのかもしれない。生きている人の誕生日を祝う時とは気持ちが少し違う。

 

喜ばしい日のはずなのに、志村を祝っても、りななんを祝っても、どこか切ない気持ちや寂しい気持ちがある。故人を改めて思い返す日になっている。

 

彼らのもっと近しい家族や友人、仕事仲間は違う考えかもしれない。もしかしたらファンが純粋に祝っていることに傷ついている可能性もある。

 

ファンが気持ちを表すために故人の誕生日を祝うことで、大切な人が居ないことや年を取ることはないということを実感するきっかけにもなるからだ。

 

1人ひとりのファンそれぞれで想う気持ちの表現方法も行動も考えも違う。それぞれの想いを尊重したい。だから自分の意見や想いが絶対だとも思っていないので、それを押し付けようとも思っていない。

 

しかし故人を想う人たち全員に共通している「想い」もあるとも思う。

 

アメリカの演劇史において代表的な劇作家のソーントン・ワイルダーは、下記の言葉を残している。

 

死者に対する最高の手向けは、悲しみではなく感謝だ

 

きっと志村正彦を想う人も、松野莉奈を想う人も、感謝の気持ちを持っているはずだ。

 

素晴らしい音楽を残してくれたことや、出会ってくれたこと、人生に影響を与えてくれたことに対して感謝していると思う。自分も感謝に気持ちでいっぱいだ。

 

故人に対して感謝をして、残された人は想いながらも前を向いて歩いていく。それこそが弔いであり供養なのかもしれない。

 

故人の誕生日を祝う時は「おめでとう」という想いだけでなく、「ありがとう」という想いを自然と込めている人が多いと思う。

 

だから個人の誕生日を祝うことも「もしも生きていたら何歳になっていたか?」を想像することも、自分は根っこに「感謝」があるのならば悪いとは思わない。大切なことだと思う。

 

最後に自分が特に好きで何度も救われたフジファブリックの曲と、松野莉奈が最後に参加したシングル曲で今のエビ中にとって大切な曲のMVを紹介し、この文章を閉じたいと思う。

 

りななん、誕生日おめでとう。

 

 

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