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MONGOL800『himeyuri ~ひめゆりの詩~』のような戦争を知らない世代が反戦歌を歌う意味はあるのか?

小学生の頃に「戦争の体験を身近なお年寄りに聞いてレポートを書こう」という宿題があった。令和の今では有り得ない宿題かもしれないが、アラサーの自分の世代は、親戚に第二次世界大戦の体験者が何人かいることが普通だった。

 

自分の祖父母は第二次世界大戦を体験している。終戦当時は10代前半だった。まだ子どもだったとはいえ、戦時中の記憶は覚えているであろう年齢だ。宿題のために祖父母の戦争体験を聞いてみた。

 

でも、教えてくれなかった。

 

祖父は「あの頃の将来の夢は特攻隊だった。そんな時代だった」と一言だけ言って、祖母は「昔すぎて全く覚えていない」と言った。

 

その代わり祖母は「お前のお父さんが子どもだった頃の話は覚えてる」と言って、父親が子どもだった頃の子育ての話をしてくれた。

 

「家にお金がなくて飼い猫を捨てなければいけなくなった時、一緒に泣きながら河原に捨ててから帰ったら、猫の方が先に帰ってきたから捨てるのを止めて最後まで飼った」というほのぼのエピソードや「当時は洋服やカバンが高かったから、全部を裁縫して作っていた」という当時の文化を交えたエピソードや「納豆を食べられなくて泣いてた」という可愛らしいエピソード、などなど。

 

それはそれで面白かった。でも自分が知りたかった話は違う。戦争体験者による、リアルで生々しい体験記だ。これでは宿題のレポートを書くことができない。仕方がないので「身近に戦争経験者が居なかった」ということにして、本で調べた戦時中の生活をレポートとしてまとめた。

 

祖父母や親戚に戦争の話を聞けなかった児童は、自分以外にも沢山いた。当時から戦争体験者は、既に少ない時代ではあったからだろうか。それとも戦争について語りたくない戦争体験者が多いからだろうか。

 

戦後の日本において戦争に好意的な人はほとんど居ない。戦争を経験したことがある一般国民ならば尚更だと思う。

 

戦時中の祖父母は今の小学生の年齢だった。大人以上に周囲の環境が心に影響する年齢だ。思い出したくもない体験をたくさんしたし、トラウマになった出来事もあった思う。それを幸せな今、わざわざ話したくはなかったのかもしれない。

 

だからこそ戦争の悲惨さが痛いほど伝わってきた。話すことを躊躇うほどに、戦争体験は思い出したくない記憶ということなのだから。ドラマや映画、本に書かれている以上の悲惨な生活や景色が、当時は広がっていたのだろう。

 

語り部となって現代まで伝え続ける戦争体験者もいる。だがその人たちはきっと、覚悟を持って、傷つきながら語り続けている。同じ過ちを繰り返さないためには、そのような人も必要だ。彼ら彼女らの活動によって、戦争を知らない人々が戦争の悲惨さを知るきっかけを得ている。尊敬すべき偉大なことをやっていると思う。

 

しかし傷ついた人が伝え続ける役割を担わなければならないことも、戦争が生んだ悲劇だ。終戦して長い年月が経ったとしても、何もかもが解決したわけではない。少なくとも戦争を経験した人の心の傷は、これからも消えることがない。

 

戦争経験者が語り継いでくれたからこそ、戦争を体験していない人も戦争の悲惨さを知っている。だから終戦から約80年経っても多くの人が戦争の悲惨さを知っているし、2度と起こしてはならない過ちということも理解している。

 

だからか戦争を体験していない世代が作った音楽にも反戦歌がたくさんある。MONGOL800の『himeyuri ~ひめゆりの詩~』もそうだ。

 

この楽曲は他の戦争未体験者が作った反戦歌よりも、生々しく情景や想いが伝わってくる。それは沖縄出身で沖縄で生活しているバンドが作ったからかもしれない。

 

 

沖縄は特に戦争の爪痕や影響が長年残っていた場所で、1972年に日本へ返還されるまでの戦後も27年間は、アメリカの統治下にあった。

 

直接体験していなくとも、間接的に戦争を体感する機会は、沖縄で生活する上で多いのかもしれない。今でも戦争があったことが影響した諸問題が、沖縄は特にたくさん残っている。

 

とはいえ曲調は明るい。バンドの持ち味を活かしたパンクなサウンドで、聴いていて身体が自然と動いてしまうほどのアップテンポだ。〈ジリジリと肌を焼く太陽〉という言葉から始まる歌なので、なんとなく聴き流していたら明るく爽やかなロックナンバーに思えるだろう。

 

だがその後の歌詞にある〈平和と呼ぶには遠く 歴史にするには早く〉という言葉が、ずっしりと心に伸し掛かる。戦争の悲惨さと忘れてはならない理由を、たった一言で表してしまうような言葉だからだ。

 

防空壕は日本全国に多数現存している。JR国道駅の入口や大手町にある鎌倉橋には、機銃掃射の跡が残っている。日本橋や言問橋には、東京大空襲で焼けた時の焦げ跡が今でも確認できる。商業施設やオフィスや住居が建っている近くに、原爆ドームは残されている。

 

生活の中に自然と溶け込んでいるから意識はしないものの、戦争の爪痕は終戦から約80年経っても残っている。それらは遠い昔からあった歴史的建造物ではなく、戦争による傷がまだ生々しく残っている今の現場だ。80年前と比べると穏やかな暮らしができる世の中ではあるが、たしかに平和と呼ぶには遠く、歴史にするには早いのかもしれない。

 

それに今でも絶対に日本で戦争が起きないとは言い切れない。日本近隣の国で戦争は現在進行形で行われているし、隣国は日本に向けてミサイルを時折飛ばしてくる。日本は2027年までに防衛予算を倍増する予定だ。少しのきっかけで戦争が行われるのではと危機感を覚える人は、今でも少なくはないと思う。

 

だが戦争の悲惨さを知っていて「もしかしたら戦争がまた起こるかもしれない」という危機感を覚えつつも、少しずつだが日本が戦争をしていたという事実は歴史になりつつあるのかもしれない。

 

2005年に銀杏BOYZは〈戦争反対って言ってりゃいいんだろ〉と歌い、2001年の曽我部圭一は〈戦争にはちょっと反対さ〉と歌った。

 

決して2組とも戦争に賛成しているわけではない。だが戦争という大きすぎる出来事が、自分の身に降りかかることが具体的に想像できない時代でもある。そんな時代を生きる人々の心や、自身の中の葛藤を音楽に昇華して歌ったのだったと思う。歴史の教科書に載っていてるものの「試験や入試問題に出題されるページ」として捉えられてしまいつつある。銀杏BOYZと曽我部恵一が戦争について歌った20年前の時点で既に。

 

自分の祖母は90歳を超えた。今では痴呆が始まり孫の顔や名前もわからなくなってしまった。昔の祖母は戦争について語ろうとしなかったが、今は戦争について語ることができなくなった。

 

でもそれは記憶から消したい出来事を、消すことができたと言えるのかもしれない。だとしたら祖母は幸せなのだろう。

 

あと20年もすれば第二次世界大戦を経験した人はいなくなってしまう。その時に同じ過ちを繰り返す可能性はある。実際に日本以外では、過ちを繰り返した国も存在する。

 

だからこそ戦争を体験していないものの戦争を体験した人と関わったことがある人は、さらに若い世代に伝え続けなればならない。自分達も忘れないようにと考え続けなければならない。戦争を経験した事がない人が反戦歌を歌い続けることは、とても重要で必要なことなのだ。

 

やはり、歴史にするには早すぎる。