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「モッシュ・ダイブ禁止」のルールは守るべきなのか?

約15年ほど前。自分は初めて銀杏BOYZをライブハウスで観た。凄まじいライブだった。バンドの演奏やパフォーマンスも衝撃的だったのだが、それと同じぐらいフロアの雰囲気にも驚いた。

 

バンドが登場し、爆音で音を鳴らした瞬間、それまで大人しかった観客の目付きが変わり、突進するように前方の観客ステージに詰め寄る。そして殴り合うかのように、お互いに身体をぶつけ合う。そんな光景はインパクトが強く、恐怖を覚えるほどだった。

 

でもみんな楽しそうで、喧嘩しているわけでも暴動が起こっているわけでもないと理解したら、不思議と楽しくなってきた。これは激しいじゃれ合いなのだ。みんな喜んでやっている。これが自分が初めて見た「モッシュ」だった。

 

さらには人の上を人が転がっている。他人を踏み台にして飛び跳ね、他人が密集している場所へ飛び込む。そして暴れ回る人の上を綺麗に転がっていく。よく見たらボーカルの峯田和伸も転がっている。カオスだ。

 

でもやはりみんな楽しそうで、殺伐とした行動によって会場は多幸感に包まれていった。これが初めて見た「ダイブ」だった。

 

演者に負けないほど観客も熱気を放っている。ライブは観客も一緒に作っているのだと、言葉ではなく肌で理解した。

 

あの景色は忘れられない。あの時の感情の昂りも忘れられない。人生において五本の指に入るほどの衝撃だった。自分が足繁くライブへ行くのは、そんな忘れられない体験を何度もしたいし、脳に焼き付くような景色を何度も観たいからだ。

 

かといって「モッシュ」や「ダイブ」がライブにおいて必須かといえば、それは違うとも思う。座って聴き浸ることで最高な気持ちになれる音楽もあるし、手拍子したり腕を上げているだけの方が楽しめるライブもある。

 

だから時折音楽ファンやバンドマンが口にする「モッシュやダイブはライブハウスの文化」という話には、首を傾げてしまう。

 

とあるライブハウスでダイブによる事故で大きな怪我をした人の文章を、先日Twitterで見かけた。そのライブでは「モッシュ・ダイブは禁止」と案内されていた。それでも一部の観客がダイブをしてしまったことで発生した事故らしい。

 

この件について、どうやら「ライブハウスの文化」という文脈で「前方にいるならば仕方がない」「ダイブやモッシュで怪我しても自己責任」と加害者を擁護したり被害者を攻撃する人もいるようだ。「禁止事項を守らない奴が悪い」という意見に対しては「文化だから悪いことでは無い」という反論をしている人も見かけた。

 

自分は「文化」を理由に擁護することも、「文化」であることが免罪符になる理由も、「文化」を最優先に大切にする必要性も、理解できない。

 

そもそもそのライブでは「ダイブ・モッシュ」は禁止事項だった。それがなぜ「文化だから」と許されるのだろうか。「文化」こそが「ルール」なのだろうか。

 

文化を守ることは大切だ。しかし悪しき文化もある。

 

例えば日本で最初に開発され20世紀中頃まで普通に使われていたからと「覚せい剤の乱用は日本の文化だから気にせず使おう!」とはならないだろう。昭和の企業文化だったからと「女は上司のセクハラに耐え、結婚したら仕事を辞め家庭に入り、男はパワハラに耐え長時間労働し、出世を目指して稼ぎ家族を養え!」という価値観は今の時代には似合わない。これらは悪しき文化だ。

 

個人的には「ダイブ・モッシュ」は悪しき文化だとは思わない。しかし「禁止は建前」「禁止でも暗黙の了解で許される」「ダイブやモッシュで怪我をしたり嫌な思いをしても自己責任」は「悪しき文化」に思う。いや、悪しき文化だと断言したい。

 

多くのライブにおいて「ダイブ・モッシュ」は禁止されている。それはコロナ禍以前からそうだった。しかし不思議なことに禁止は「建前」として扱われ、暗黙の了解でダイブもモッシュも許されているライブも少なくはなかった。さらに不思議なことに、それが当然のこととして扱われていた。

 

コロナ禍以前の自分も「禁止されていても暗黙の了解で許される」ことが当然だと思っていた。ルールなど関係なく空気を読み、互いを思いやり助け合うことで、禁止事項を破り楽しむことこそ、美しいライブハウスの形で文化だと信じていた。

 

しかしそれを「文化」として許してきたことは「間違い」で「悪」だったのかもしれない。実際は「受け入れられていた」というよりも、諦めている人も少なくはなく、それによって当然のものになってしまったのかもしれない。

 

そもそもモッシュやダイブがロックシーンやライブハウスにとって大切な文化ならば、建前だとしても「禁止」にする必要などないはずだ。むしろルールとして「許可」してこそ「文化」を大切にしていると言えるのではないだろうか。

 

ライブハウス側や運営及びアーティストが「ダイブ・モッシュは禁止」というルールを掲げつつも、ダイブやモッシュを煽ったり暗黙の了解で認める理由は、責任逃れする隙を作っていると自分は思ってしまう。

 

バンド及びアーティスト側は、観客がモッシュやダイブをして盛り上がっている姿を見たい。写真や映像として残すならば、ダイブやモッシュをするフロアの様子は映えるので好都合だ。観客もそんなバンドの想いや期待に応えたいし、そのように暴れて楽しみたい人も少なくはない。ライブハウスも「それが文化のひとつ」として認めたいだろうし、暴れたい客が来なくなると収益が減るので困る。

 

しかし万が一の事態が発生した場合、その責任を取ることは金銭的にも労力的にも負担が大きい。できれば運営側はその負担を背負いたくない。だから「禁止」というルールを定めることで「ルールを破った観客」が悪で、責任を取らせようとしているのではと思ってしまう。

 

つまり「暗黙の了解でルールを破ってもいい」という文化は、万が一の事態で責任を取りたくない運営と、怪我や死亡事故のリスクを背負ってでも暴れて楽しみたい観客にとって、ウィン・ウィンの関係になれるものなのだ。(実際に大事故が発生した場合は運営も責任が追及されるかもしれないが)

 

とはいえ誰もが「ダイブ・モッシュ」に好意的なわけではない。コロナ禍以前からも賛否が分かれていたが、コロナ禍を経てダイブやモッシュが復活したことで、観客同士の価値観の違いによる分断が、より深刻になってきたように感じる。

 

それはコロナ禍でライブの楽しみ方は変わったことの影響が強いのかもしれない。

 

ロックのライブでも立ち位置の指定があったりと、落ち着いて音に浸りながら楽しむ公演が基本の時期があった。かつては「整理番号が早いけれどモッシュやダイブが怖い」と思っていた人も、前方で音楽を自由に楽しめるようになった。これはコロナ禍によって「新しい文化」が生まれたとも言える。落ち着いて音楽を楽しみたい人にとって、コロナ禍のライブハウスは最高の空間だったはずだ。コロナ禍からライブに行き始めた人にとっては、それが「ライブハウスの常識」として受け取っただろう。

 

コロナ禍以前はダイブやモッシュが当然と思っていた音楽ファンも「良い位置でステージをじっくり観て聴くライブも最高だ」と思い、価値観が変わった人もいるだろう。それにまだコロナ禍が終わったわけではない。感染症対策の面でも、現時点でモッシュやダイブを解禁することに懐疑的な人も少なくはないだろう。

 

本来は誰もが楽しめる空間であったはずのライブハウスに、ピリピリした空気が流れて欲しくない。その空気を変えるためにも、運営及びアーティスト側からの働きがけが必要なはずだ。

 

そのためにも「モッシュ・ダイブの許可」をルールとして定め「暗黙の了解」というグレーな状況を変えるべきに思う。

 

そして「万が一の事態が発生した時は運営が責任を取る」もしくは「自身が原因となる怪我は自己責任で、自身が原因で他者を怪我させた場合は責任を取る」「死者が発生した場合は運営と加害者が償う」というルールも設けた方が良い。「フロントエリアは危険」ということもアナウンスし、モッシュやダイブを想定していない人の安全と安心を守ることも必要だろう。

 

逆に「モッシュ・ダイブ」を禁止させたい場合も、有耶無耶にするのではなく徹底して守らせる働きがけが必要だろう。今まで通りに「建前」として認識していた観客が、悪意のない加害者になる可能性も考えられる。それは防がなければならない。

 

運営と観客も「モッシュやダイブは危険な行為」ということを、もっと意識して深刻に真剣に考えるべきだ。それでも文化として大切にしたいならば、それ相応の責任を取る約束をすべきだ。

 

過去にはロッキング・オン主催フェスで、ダイブによる事故で後遺症が残る怪我をした人がいる。2017年に行われたスイスの音楽フェスでは、28歳の男性がダイブ中に落下して死亡した。2007年に行われたスマッシング・パンプキンズのライブでも、20歳の男性が死亡している。この事故ははっきりとした原因はわかっていないものの、死亡した男性がダイブ中に落下した目撃証言がある。

 

モッシュ等による圧縮によって発生した大きな事故も多い。COMIN’KOBE17では将棋倒しが発生し、21歳の女性が脊髄損傷の重症となった。同年に幕張メッセで行われたONE OK ROCKのライブでもサブステージに移動したメンバーに近づこうとした観客によって将棋倒しが発生し、50名以上が体調不良を訴え21名が病院に搬送された。

 

日本でもライブ中の死亡事故はある。特に1987年に日比谷公園野外音楽堂で行われたラフィンノーズのライブの事故は悲劇的だった。公演中の将棋倒しにより死者が3名発生している。この出来事は社会問題になったらしい。バンドは事故を理由に活動休止した。この事故はその後のライブ運営方法にも大きな影響を与えており、現在のライブシーンの運営方法にも影響は残っている。

 

 

深刻な後遺症が残ったり、亡くなってしまう人が居るほどに、ダイブやモッシュは危険なのだ。

 

それなのに「ダイブで怪我しても自己責任」と考えている人の多くは、自分が一生歩けなくなるほどの怪我をするとも、頭を打って死ぬかもしれないとも考えていないだろう。

 

自分がダイブしている時に他人の頭を蹴って意識不明の重体にさせる可能性も、将棋倒しの原因を作って他人を殺してしまう可能性も、きっと想像もしていないはずだ。

 

そしてそれ以上に運営が「ダイブ・モッシュ」の危険性を甘く見てはいないだろうか。

 

いや、もしかしたら、どのように対策しても危険は生ずることを誰よりも理解しているからこそ、建前で「禁止」とする運営が多いのかもしれない。取り返しがつかない事故が発生する可能性が高いからこそ、責任の所在が運営に行かない手段を選んでいるのだろうか。

 

「文化」として大切にするならば、危険性にも目を向けなければならない。万が一の事態には真摯に向き合う必要がある。それなのに取るべき責任を放棄する理由として「文化」を利用しているように思えてしまう。口先だけで実際は「文化」を軽く扱ってはいないだろうか。そんな文化ならば滅びた方が良い。本当に文化を守るつもりならば、危険性やトラブルのリスクをしっかり理解して、そこに関わる全員が責任を持つべきだ。

 

モッシュやダイブは音楽で興奮した衝動だと言う人がいる。その気持ちは自分もわかる。しかし理性を捨てて暴れることが正解だとは思えない。我々は人間であり猿ではないのだから、どんな状況でも一定の冷静さは保ちながら楽しむべきだ。

 

例えば好みの異性が見かけたという衝動を理由に、その異性に許可なく抱きつくことが許されないように、衝動を理由に危険を顧みず好き放題にモッシュやダイブをすることも許されないはずだ。

 

約15年前に自分が銀杏BOYZのライブで、初めてモッシュとダイブを目撃した時の話に戻そう。

 

当時のフロアは衝動的に暴れているように見える人がたくさんいた。だがよくよく観ると全員が一定の理性を保ってはいた。

 

ダイブやクラウドサーフをしている人は、足を上に上げて他者を蹴らないよう気を使っていた。将棋倒しになりかけたら、その周辺の人が倒れないように支えていた。倒れてしまった人がいればスペースを作ってあげて起こしてあげた。身体の大きな男性は身体の小さな女性にはぶつからないよう、気を使いながらモッシュしていた。靴紐が解けてしまった人がいれば、スペースを作って靴紐を結ばせてあげた。

 

自分も靴紐が解けてしまった時、周囲の人に助けてもらった。結び終えてから軽くお辞儀した時、自分よりも少し年上のお兄さんがこちらの肩を叩いた後にガッツポーズをしてくれた。その瞬間、ここは最高の空間だと思った。

 

自分は激しいフロアの熱気だけでなく、これだけ激しいのに助け合いながら楽しんでいることに感動した。みんな周囲を気遣っていたのだ。「安全ではないけれど安心して楽しめる空間」だと思った。今でもこの空間が忘れられない。

 

周囲を見つつ他人を考えて楽しむ空間なので、完全な自由ではなかった。他人の自由のために自分の不自由も受け入れなければならないのだから。しかしその中で全員が可能な限りに自由に楽しめる空間を、それぞれが考えつつ作ろうとしていた。だから最高の空間になっていた。

 

この時と同じような「安全では無いけれど、安心して楽しめる空間」かつ「不自由の中で可能な限りの自由を見つけられる空間」が、今でも自分にとって「最高のライブハウス」の基準になっている。

 

当時のライブハウスがどのようなルールを設けていたかは覚えていない。もしかしたらモッシュやダイブは禁止されていていたかもしれない。当時から「禁止」は建前で、ルールを破ることが当然とされる、悪しき文化が存在していた可能性もある。

 

しかしあの日のライブには、建前の禁止でも許したいと思える状況があった。当時から他のライブハウスや他のバンドのライブでは、また違った空気があったかもしれないが、少なくともあの日のライブは、そのような空間だった。

 

あの日は「自己責任」ではなく「連帯責任」と感じる雰囲気だった。

 

「連帯責任」というとマイナスなイメージがあるかもしれないが、自分はこの件については「誰かに何かがあった時は助けるし、何かがないような行動をする」といった、プラスの意味で使っている。強制的に誰かの過ちの責任を連帯で取らさせられる「連帯責任」ではなく、「音楽を愛する者同士」が自然と連帯したからこそ生まれた、本人が望んで背負うことを決めた「連帯責任」だ。

 

だからダイブやモッシュの怪我や、それで嫌な思いをしたとしても「自己責任」という文化を、自分は良いとは思えない。そもそも「自己責任」は文化ではなかったのではないだろうか。18年前の銀杏BOYZを観た自分は、そう思ってしまう。「連帯責任」こそ文化だったと信じたい。

 

しかしダイブやモッシュによるトラブルが絶えなかったことや、運営が「禁止」を建前にしたこともあってか、「自己責任」という考えが常識のように扱われ広まってしまい、それによって「ダイブ・モッシュ論争」が悪い意味で盛り上がってしまったように思う。

 

昔から存在したのかもしれないが、モッシュやダイブを利用して暴力を振るったり、痴漢をする人の話もさらによく聞くようになった気がする。大人しく聴いていたり、所謂「彼女守るマン」に対しては、モッシュやダイブのどさくさに紛れて攻撃することが、武勇伝のようにSNSで語られることもある。

 

ここまで行ったら「自己責任」ですらない。責任を取る必要がない被害者だ。そもそも「モッシュ・ダイブ」ですらない。ただの暴力だ。

 

それは音楽によって興奮して衝動的に盛り上がったわけでもない。気に食わない人間を傷つけるため、音楽やライブハウスを利用し、「文化」を言い訳に正当化している。それに「前方で落ち着いて観たい人」や「中央の音の良い場所でじっくり楽しみたい人」の自由も尊重すべきなのに、モッシュやダイブをやりたい人によって、その人たちの自由が奪われているとも言える。

 

そもそも「モッシュ・ダイブ」はライブハウスの文化というよりも、一部のジャンルの一部のバンドやアーティストのライブにおける文化だ。その中でも実際にモッシュやダイブをするのは観客の中では少数派でもある。当たり前に存在はしていたが、当たり前に誰もがしていたことではない。

 

それに「文化」は形が変わる。

 

例えばロックのライブで、曲のサビで腕を上げるのは文化の1つたと思う。しかしその際の手の形も時代によって違う。20年前は拳だったが、15年前は人差し指を立てていた。ここ数年は手の平を広げる人が多い。どんな曲でもイントロで拳を挙げ「オイ!オイ!」と叫ぶ人が多かった時期もあったが、今はそんなライブはほとんどない。

 

モッシュだって形は変わる。スペースを見つけて激しくぶつかるように踊る時代があれば、おしくらまんじゅうのように密になることをモッシュと呼ぶ人が多い時代もあった。フェスがバブル的人気になるまでは、後方まで広がる大きなサークルが作られることも珍しかったと思う。

 

ダイブだってそうだ。現在「ダイブ」と呼ばれている行動の多くは、「クラウドサーフ」と呼ばれていた行動だ。客がステージダイブをすることなんて、今では特殊な事情を除いてはアンダーグラウンドなシーンでしか見かけない。

 

かつてはモッシュやダイブが発生していたバンドも、時の流れや音楽性の変化で客のノリが変わることもある。フジファブリックのライブでモッシュが発生し、くるりのライブでダイブする人がいたと聞いても、今は信じる人など誰も居ないだろう。

 

「文化」というものは時代によって変化する。さらに言うと人それぞれ、何を「文化」として理解するかも違う。自身の価値観に合ったものを「文化」と思い込み、それが絶対に正しいと思い込む場合もある。コロナ禍になってからライブに行き始めた人は、感染症対策により生まれたルールを守りながら楽しむことが「文化」だと思っているかもしれない。

 

コロナ禍は大きな出来事だった。多くの人の様々な価値観が変わってしまった。当然ながらライブシーンにもそれは波及している。しかもコロナ禍による価値観の変化は現在進行形だ。

 

感染症対策を施したイベントガイドラインは半年前と比べても違うものになっているし、3ヶ月前と比べてもライブの楽しみ方に対する価値観はより多様になった。

 

コロナ禍以前の価値観を現代に押し付けるのは、古い価値観の押し付けにもなり得るし、コロナ禍になってからのルールを変えずに守り抜くことも、前に進むことに躊躇いすぎとも言える。

 

かつては建前で禁止されているルールが暗黙の了解で破られても、問題ないし自然だと感じる場面は多かったかもしれない。それでも上手くいっていたし、それによって上手く回っていたのかもしれない。本当はルールなどに縛られるのではなく、各自の判断や気遣いによってハッピーな空間になることがベストに思う。

 

しかし価値観が多様になったので、今は各自の判断や気遣いだけで上手くはいかない。2023年においては「建前のルール」や「暗黙の了解でルールは破っても良い」という文化は、時代遅れでトラブルの現況となる悪しき文化になったのだ。

 

「ダイブ・モッシュ」を許すならば禁止せずにルールとして解禁し、運営は腹を括って責任を背負い、それに加えて危険性についてアナウンスすべきだ。観客も危険性を認識する必要がある。

 

逆に「禁止」をルールとするならば、きちんと守らせるべきだ。今の多様な価値観が入り乱れた状況では、ルールを有耶無耶なままにしては一部の人だけが得をしてしまう。

 

最近はライブシーンが「コロナ禍以前に戻ってきた」という話をする人が多い。しかし自分は元に戻す必要を感じないし、むしろ過去に戻るなんて進歩がなくて嫌だ。元に戻すのではなく、マイナスな出来事だらけだったコロナ禍を糧に前進したい。

 

前進した上でコロナ禍以前に許されていた楽しみ方を、コロナ禍の楽しみ方に取り入れ、全員がそれを受け入れ、全員が自分とは違う価値観の人も尊重し、全員が平等に楽しめる環境を、運営とアーティストとファンとで時間をかけて丁寧に作るべきに思う。

 

それが完全にできるようになればルールは不要だが、時間はかかるし簡単では無い。それに今はその段階ではない。今はコロナ禍以後の最高のライブ環境を作るため、有耶無耶なルールを排除しルールを明確化する段階なのだ。

 

元に戻すのではなく、先に進もう。他者を突き放すような「自己責任」ではなく、他者を思いやり優先する「連帯責任」を目指したい。ルールの意味や重要性が理解された後、どこまでなら縛られたルールを緩和できるかを考え、どのルールは絶対的に徹底しなければならないかを、深くじっくり考えたい。

 

これは「モッシュ・ダイブ」に限らない話だ。しかし「モッシュ・ダイブ」については、特に重要視して考える必要がある。過去に一生付きまとう後遺症が残ってしまったり、亡くなってしまう事故も発生している、危険で命に関わる問題なのだから。

 

全てのライブというわけではないが、モッシュやダイブが当然に発生するバンドのライブでも、それらがルールとして禁止がされている場合が多い。決して特定のバンドをディスる訳でもないし、自治体も絡んでいるフェスなので様々な事情があるのかもしれないが、SiM主催の『DEAD POP FESTiBAL』や10-FEET主催の『京都大作戦』ですらコロナ禍以前も「モッシュ・ダイブ」を禁止していたことには驚いた。

 

当然ながらこの2つのフェスのルールは建前で、モッシュもダイブも大量発生している。この2組のことは好きだし特にSiMのMAHの考え方や行動については尊敬しているが、個人的にはそこに対する責任を放棄はせず背負って欲しかった。

 

ルールは人を縛り付けるものではない。適切で優れたルールは、多くの人に自由を与えてくれる。世の中を良くするためのツールの1つだ。ルールを破ることで生まれる自由もある。しかしそれは一部の人だけに与えられる自由だ。ルールが破られて生まれる自由は、誰かの自由を強制的に奪って得た不当な自由である。

 

このツアー、最初の方なんだけど、わりと上手くいってます(笑)。プロの人がこういうのもなんだけど、練習して良かったなあと。

 

みんなは練習いりません。最初から最後まで、自由に楽しんでください。歌いたいやつは歌えばいいし、踊りたいやつは踊ればいいし、じーっと観てたいやつはじーっと観てればいいです。今日だけは、隣の人がどんなノリ方してても許してあげてください。時々は、俺、迷惑かけてないかなって、気にしながら暴れてください。最後まで仲良く頼むぞ!

引用:

ザ・クロマニヨンズ@赤坂BLITZ 2015.11.11 邦楽ライブレポート|音楽情報サイトrockinon.com

 

ザ・クロマニヨンズの甲本ヒロトが、かつてライブでこのような話をしていた。本当は「俺、迷惑かけてないかな」と、全員が時々考えて気にすることができたら、大半のルールは必要ないだろう。このような空間こそベストだとは思う。

 

しかしこの空間は簡単には手に入らない。手に入れるため、まずはルールを整えて守らなければならない。特に「モッシュ・ダイブ」のような命に関わることは、ルールの必要性をしっかり考え、許可するなら責任を背負わなければならない。

 

だからこそ他者を突き放す「自己責任」ではなく、他者と協力する「連帯責任」で。周囲を気遣い、最も守るべきものが何かを考えるように。「ルールなんて必要ない」と思える空間を目指すため、今はルールをしっかり守っていくように。

 

「過去の文化を守る」よりも、これからの「新しい文化を作る」方が、楽しいし最高だとは思わないかい。こうしてコロナ禍以降の「新しいライブの形」を作って行けたら最高じゃないか。