オトニッチ

ニッチな音楽情報と捻くれて共感されない音楽コラムと音楽エッセイ

【レビュー】ずっと真夜中でいいのに。『沈香学』でACAねの歌唱方法が変わった

ずっと真夜中でいいのに。の音楽は、ビートの強さが要だ。自分はずとまよの音楽と出会った時から、そんなことをずっと思っていた。J-POPとしてのキャッチーさを忘れずにビートの強さを極めることで、ずとまよの個性は深まり魅力が増大すると信じている。

 

ビートの強い楽曲は、リリースを重なるごとに増えていた。

 

1stアルバム『潜潜話』の収録曲は、メロディアスでボカロ文化の影響を受けつつもビートが個性的な楽曲が中心だった。それが2ndアルバム『ぐされ』でビートがより強くなる。その流れを汲んで6月にリリースされたばかりの3rdアルバム『沈香学』は、ビートを最重要視した作品になっていた。

 

『沈香学』は導入がリズム楽器から始まる楽曲が複数ある。例えば『残機』『馴れ合いサーブ』。この2曲はベースの演奏から始まり、そこにドラムが重なるという構成だ。『綺羅キラー』のように、ギターのカッティングから始まる楽曲もある。これらは自然とビートを意識してしまう仕掛けの編曲だ。

 

今作は音楽ジャンルとしてビートが重要となるジャンルを取り入れ、その影響を伝えるかのような楽曲も収録されている。『花一匁』はソウルミュージックのテイストを取り入れているし『不法侵入』はR&Bの影響を感じる。『上辺の私自身なんだよ』はダブのリズムで、フィッシュマンズへのリスペクトを感じるような編曲だ。

 

この傾向は2ndアルバムまでのずとまよとは、少しだけ違う。2ndアルバムまではビートを大切にしつつも、メロディアスな部分を最重視した作風に感じるからだ。それが3rdアルバムでビートの強さを重視する方向へ振り切ったことで、ずとまよの音楽により深みが増したのである。

 

ACAねの歌唱方法も、ビートを意識したものに変化した。今作の歌唱は「メロディを歌う」というよりも「声や言葉をビートに当てはめている」と感じるのだ。言葉を細かく区切ったり、一音に2文字を詰め込むように歌っている。あえて言葉を曖昧に発音することも多い。これは過去作ではほとんど見られなかった傾向だ。聞き取りづらくなったとしても、耳で聴いていて心地よい音になるよう工夫したのだろう。

 

この歌唱方法によって、歌だけでも踊れてしまうようなビートが生まれるのだ。試しに『沈香学』収録曲の歌に、ピッタリと合わせるように手拍子してみてほしい。複雑ながらも気持ちの良いビートをならす手拍子になっていることがわかるはずだ。今作のACAねは歌声をリズム楽器のように使っているとも言える。他のシンガーはメロディを重視することが多いので、このような感覚になることは少ない。

 

歌詞もビートを意識したものが多い。歌詞のどれもに意味やメッセージがあることが前提の話ではあるが、歌唱としては意味よりも韻や響きを重視している。

 

例えば『あいつら全員同窓会』の〈ステンバイミー 自然体に シャイな空騒ぎ〉などは、意味よりも言葉遊びの要素が強い。しかし綺麗に韻を踏んでいるので聴いていて気持ちいい。『綺羅キラー』の〈最低なコンプだし 最高のこんぶ出汁 揃ってるだけじゃつまらんし〉というフレーズも同様だ。

 

言葉の発音をあえて間違ったものにすることで、ビートの心地よさを作っている歌唱もある。『馴れ合いサーブ』で歌われる〈ラリー〉というフレーズや『ミラーチューン』の〈笑っとく〉や『花一匁』の〈淡い残りがの攻撃に〉などがそれだ。言葉として正しい発音にしてしまってはビートの心地よさが損なわれてしまう。それを防ぐために、あえて個性的な発音で歌っているのだろう。

 

だがビートを意識しすぎては、心地よすぎて聞き流されてしまい、楽曲が印象に残らない可能性もある。

 

その対処として楽曲内の一部分は言葉をはっきりと発音している。特にサビの最初のフレーズではっきりと発音することが多い。『猫リセット』『花一匁』などでそれを感じる。

 

これによって「ビートに偏りすぎた音楽」ではなく、キャチーなポップスとしてキャッチーな音楽として成立しているのだ。だからサビのフレーズは一度聴けば覚えてしまう楽曲が多い。

 

ビートの心地よさは損なわれる危険性もあるが、ずとまよはバンドメンバーも一流だ。ビートを重視した演奏をしている。ギターなどのメロディを奏でる楽器だとしても、リズムを刻むような演奏が中心だ。

 

ビートの維持が成立するギリギリを攻めた歌唱かつ、ビートに傾倒しすぎないように気をつけた歌唱をしているACAね。そしてバンドはそれを支えつつ、楽曲全体的のビートの気持ちよさを意識した演奏をする。それによって絶妙なバランスで成立している、ずとまよだからこその個性を感じる音楽になるのだ。

 

その傾向は活動初期からあったのかもしれない。しかし今作で今までの積み重ねの成果が形となって現れ、ずとまよの個性は強まり魅力が深まった。

 

そんな音楽によって、自分はずとまよにさらに魅了された。きっと自分は肋の骨が折れるまで、ずとまよを聴き続けるだろう。

 

↓ずとまよの過去記事はこちら↓