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Sexy Zone菊池風磨を「全裸ドッキリ」に仕掛けることは間違っている

先日放送された『芸能人が本気で考えた!ドッキリGP』で、菊池風磨がドッキリを仕掛けられていた。P&Gの洗濯洗剤「ボールド」のテレビCMとのコラボするという、豪華なドッキリ企画だ。

 

内容はCM撮影をしていると思い込んでいる菊池に水に濡れると溶ける素材の服を着させ、スタッフが大量の放水をして服を溶かし全裸にするという内容だ。6カ月の制作期間と約2000万円の制作費をかけたらしく、壮大な映像になっていた。

 

多くの人や大金を動かしている上に、細かな部分まで作り込まれている。ナレーションの語り方も選ぶ言葉も秀逸だったし、菊池風磨は仕掛けられた側として完璧な反応や対応をしていた。とっさにバラエティ番組として最も面白くなる展開を考えて実行したのだろう。彼は頭の回転が速い。

 

自分もついつい笑ってしまった。面白かった。でも、笑いつつも、心のどこかでモヤモヤを感じていた。そのモヤモヤは見終わった後、どんどん大きくなっていった。

 

それはなぜかと言うと、自分が菊池風磨と同じドッキリを仕掛けられたとしたら、心底ショックを受けて傷ついてしまうと思ったからだ。

 

このドッキリは女性アイドルだったら成立しない。例えば乃木坂46のメンバーが同じドッキリを仕掛けられたら大炎上していただろう。仕掛けられた本人がなんとも思っていなかったとしても、社会問題となり番組は打ち切られたかとしれない。Sexy Zoneの他のメンバー相手ならば、違うドッキリの内容にしていたと思う。これは菊池風磨が長年レギュラー出演している番組で仕掛けられたドッキリという背景があるから成立したのだ。

 

菊池風磨は信頼関係があるスタッフ相手だからこそ許せたのだろう。それにこの「全裸ドッキリ」は、過去にも近い内容のものが行われている。定番ネタとして繰り返しているのだから、彼自身はドッキリを仕掛けられることを楽しんでいるのかもしれない。

 

そんな空気感が映像から伝わってくるので、「全裸ドッキリ」は問題ないようように感じてしまう。

 

しかし「男性相手だから」「菊池風磨だから」という理由でこのドッキリを行ったのならば、それは良くないことだ。やっていること自体は「本人の許可を得ずに他者が無理やり全裸にさせ、その様子を動画で撮影して笑いのネタにする」という、個人の尊厳と心を傷つける酷い行為なのだから。

 

それが「ドッキリ」という可愛らしい言葉で誤魔化され、テレビのバラエティ番組として編集されることで、その酷さや暴力性が隠されている。菊池風磨の優しさと頭の回転の速さによって、エンタメとして成立する展開に持っていけたが、それがなければ「立場が上の人間や組織が、下の立場の人間を性暴力によって笑い者にしている」と思われても仕方が内容だ。

 

かつて、おかやま山陽高校の野球部で顧問が男子部員に全裸でのランニングを強要させ、顧問が逮捕される事件があった。「全裸ドッキリ」をすることは、顧問が部員を全裸でランニングさせることと、本質は同じではないだろうか。

 

「男性だから」という理由で許されるドッキリならば、これは男女差別であり男性の生きづらさのひとつに思う。「菊池風磨だから」という理由で仕掛けたのならば、それも差別だし加害者が自覚を持たずに虐めをしているとも思う。

 

「男だから」という理由で問題にならなかった性暴力やセクハラや差別を、自分は過去に見たことがあるし、体験したことがある。

 

例えば小学生時代にズボンやパンツを他人が引っ張って脱がす遊びが流行っていたこと。ターゲットになったのは男子ばかりだったし、その中でも「こいつなら弱そう」「こいつなら怒らなそう」といった、大人しくて優しい男子が被害にあっていたと思う。なんなら女子も男子に加害をしていた。

 

しかし女子が被害に合うことはほとんどなかった。「女子にやってはいけない」という価値観が男子の中にあったし、教師は女子が被害に合えば加害者をで徹底的に叱って、親を呼んで叱る場合もあったようだ。しかし男子が被害にあっても、被害にあった男子が傷つき泣いていても、さほど問題とは思ってなかったようだ。「そういうことはダメだよ」と軽く注意する程度だった。むしろ「男なのにその程度で傷つくなんて情けない」と周囲に言われるほどだった。

 

友人同士の女子が触れ合ったり手を繋いでいても、それは「仲がいいね」と思われて受け入れられていた。しかし男子同士が同じように触れ合っていたら「お前らはホモか?」と笑われる光景を見たことがある。「男同士で気持ち悪い」と言う教師や保護者すらいた。

 

そういえば「ジャニーズの大ファンだ」という男子が「お前はホモか?」と言われて笑われていた光景も覚えている。

 

なぜ男女でこんなに反応が変わってしまうのか。そもそもなぜ「ホモ」という言葉でバカにするのか。もしも本当に男性同性愛者だっとして、それの何が悪いのか。なぜ差別するのか。

 

これは自分が10年以上前に体験した一例であって、特殊な例かもしれない。もちろん「女子も同じように被害に会えばいい」なんて微塵も思っていない。性別は関係なく被害者を出してはならない。

 

「女性の生きづらさ」があることと同じように、「男性の生きづらさ」もある。「男性でも女性でもない人の生きづらさ」だってある。その全てを改善していくべきだ。

 

社会はその部分について、ここ数年で少しずつ良い方向に変わってきているとは思う。それでもまだ差別も生きづらさも残っているし、ふとした時に傷ついてしまう時もある。

 

自分にとって「ふとした時に傷ついてしまう」例のひとつが、菊池風磨が仕掛けられた「全裸ドッキリ」だった。「男性の生きづらさ」「男女差別」「特定の人物への差別」を、観終わった後にジワジワと感じてしまい、過去の経験と重ねてしまい辛くなった。

 

しかし自分はSexyZoneや菊池風磨を批判するつもりはない。それに自分はSexyZoneのファンだ。セクラバだ。基本的には好きなアイドルが出演する番組を楽しんで観ている。世の中にSexyZoneの存在や音楽がもっと評価されるべきと思っている。

 

菊池風磨の全裸ドッキリ企画を観て楽しんだ人を批判するつもりもない。テレビのバラエティ番組は難しいことを考えず、気軽に観て笑って楽しむものだ。「菊池風磨、面白くて最高だな!」と頭を空っぽにして楽しむことは一般的な感覚である。それにテレビのプロがお金と時間を掛けて企画し編集したのだから、面白いのは当然だ。

 

なんならテレビ局や関係者を叩きたい訳でもない。菊池風磨は『ドッキリGP』に長年出演しているし、過去にも同じような全裸ドッキリを仕掛けられたことがあるらしい。(自分は過去の分は見逃しているので、今回全裸ドッキリは初めて見た)

 

何度も全裸ドッキリを仕掛けるということは、それでも許せるほどに、出演者とスタッフとの信頼関係が構築されていて、出演者自身は仕掛けられる可能性を、番組の性質上理解しているということだろう。

 

スタッフも悪意はなかったはずだ。純粋に視聴者を楽しませたかったのだと思う。菊池風磨と一緒に「ドッキリ」をテーマに、最高のエンタメを作ろうとしたのだと思う。

 

「全裸ドッキリ」は迂闊な内容だったし、その企画を通して問題がないのかを深く考えるべきだった。セクハラであり性暴力と受け取られても仕方がない内容だなのだから。

 

しかしこの番組を観て、元気をもらった人がいるかもしれない。思いっきり笑って、晴れやかな気持ちになって、明日を生きる希望をもらった人がいるかもしれない。それは下品な感動かもしれないが、それに救われた人がいるかもしれないことも、尊重はしたいと思う。

 

セクハラや性暴力だと批判されても仕方がない。そのような意見も大切だ。それに番組関係者は向き合うべきに思う。

 

しかし番組を徹底的に叩くことは間違っている。それはこの番組を楽しんだ人の気持ちを傷つけることでもある。もしも菊池風磨自身が本心からドッキリを仕掛けられたことを面白がったとすれば、菊池風磨を含む番組関係者を傷つけることにもなってしまう。

 

この件に限った話ではないが「傷つく人をなくしたい」「世の中をより良くしたい」「誰もが生きやすい世の中にしたい」という正義感や好意の行動が、いつしか過激な発言や行動になってしまい、結果的に別の人を傷つけてしまうことが少なくはない。感情が昂ると本質を見失ってしまいがちなのだ。

 

しかし全裸ドッキリを真似をする子どもが出る可能性もある。ドッキリ企画のせいで過去のトラウマや被害がフラッシュバックして傷つく人もいるかもしれない。自分もドッキリ企画を見て、過去の嫌な出来事を思い出してしまった者のひとりだ。その人たちは最優先で守るべきである。

 

そんな様々な感情で思考がぐちゃぐちゃになってしまい、自分の考えが上手くまとまらない。あまりにも難しすぎる問題だ。

 

しかし「誰もが生きやすい世の中」を目指すためには、バラエティ番組だとしても「全裸ドッキリ」は行うべきではない。そんな答えが自分の中で導かれた。背景や文脈は別として考えれば、行ったこと自体は性暴力としか言えないのだから。

 

かといって今まで行われた「全裸ドッキリ」の、何もかもを否定することも違うとは思う。

 

作り手は「視聴者を楽しませよう」という悪意のない感情で、むしろ善意すら持って作ったものだろうし、それを観て笑顔がこぼれて幸せな気持ちになった人もいる。身近な場で行われた性暴力を楽しむならば別として、テレビのエンタメとして理解し受け取っていたならば、そこまで悪い事だと自分は思えない。例えば犯罪が描かれるフィクションの映画やドラマを楽しむことと同じかもしれない。

 

だから「全裸ドッキリ」を観て笑顔になった人の気持ちの全てまでもを否定すべきではない。これも自分の中で導かれた答えのひとつだ。

 

ただ、これを「定番ネタ」として今後も続けていくことは、あってはならないとは思う。傷つく人がいることや、内容自体は性暴力であることを忘れてはならない。

 

「全裸ドッキリは面白かったけど、問題があるから今回限りで終わりにすべきだ」と作り手も視聴者も思って欲しい。本当は「全裸ドッキリ」は行うべきではないのだ。それを全員が理解なければならない。これも自分の中で導かれた答えのひとつだ。

 

そもそも「ドッキリ」という企画自体が、他人を笑い者にして面白がる性質がある。個人の尊厳を傷つける可能性を含んでいる、危うい企画なのだ。

 

例えば「ゆで卵を生卵と思わせて割らせようとする」「写真撮影をすると言ったが実際は動画だった」というような、仕掛けられた側も笑えるような、誰も傷つかないドッキリを考えるべきかもしれない。

 

もちろんテレビ番組ではそんな些細な内容では成立しないだろうが、「ドッキリ企画」を行うならば、軸はそこからブレないよう気を使いつつ、内容を膨らましていく必要があるだろう。

 

今は様々な価値観で世の中が溢れている。それを全ての人が共有し擦り合わせることは難しい。「全裸ドッキリ」の賛否も、一筋縄ではいかないぐらいに複雑で難解な問題だと思う。しかし「誰もが生きやすい世の中」を目指すならば、その是非について考えなければとも思う。

 

普段のSexy Zoneは、多様性を大切にしているし、ジェンダーに関する価値観や考えも日々アップデートさせている。自分が以前Sexy Zoneのコンサートへ行った時にもそれを感じで、このような記事を書いたことがある。

 

 

ジェンダーの問題やルッキズムなど現代社会における「問題」を、アイドルという職業は性質として抱えている。時折「アイドル」の存在自体が社会問題と繋げて批判されることもある。しかしSexyZoneはアイドルとしてそれらに向き合い葛藤しながら考え、新しいアイドルの形を作ろうとしている。

 

だから菊池風磨も自身が仕掛けられたドッキリについて、様々なことを考えているのかもしれない。だからかドッキリのネタバレをされた後のコメントや対応は、誰も傷つかないエンタメの笑いへ昇華させようとしていた。

 

それにSexy Zoneの音楽やコンサートは、誰も傷つかない幸せの空間を作っている。

 

自分は男性なので女性ファンが大多数のジャニーズのコンサートへ行くことに気が引けていた。周囲から浮いてしまったり、周囲の人に嫌な思いをさせないだろうかと不安もあった。

 

しかしSexyZoneのライブでは、男性が客席にいることも女性客は気にしていないようだった。警戒されることもなかったし、かといって特別扱いされることもなかった。

 

SexyZoneのメンバーがライブのMCで男性ファンの存在に触れることもあった。それは男性ファンを特別扱いするわけではなく、性別を気にして萎縮せず心から楽しめる気持ちにさせるための気遣いだったように思う。彼らは性別を理由に贔屓することなく、性別も年代も関係なく全員を平等なファンとして受け入れてくれる。

 

それが嬉しかったし、彼らのライブは平等に誰もが幸せになれる空間に思った。このような世界を作れることが、Sexy Zoneや菊池風磨の本質だ。

 

世界のどこもかしこもが、SexyZoneのライブのような空間になればいいのに。でもそれは、まだ難しい。だから答えが出ない問題について、考え続けなければならない。

 

SexyZoneだけでなく、世の中の全ての人で、一緒に時代を創ろう。